近ごろ、社会の思潮が市場から非市場的なものへ変ってきたように感じるが、その例です。


今年のノーベル経済学賞はインディアナ大学のエリノー・オストロム教授とカリフォルニア大学バークレイ校のオリバー・ウィリアムソン教授でした。オストロム教授に対しては "for her analysis of economic governance, especially the commons"(経済的な統治、特に共同体、の彼女の分析) の貢献です。


オストロム教授はアメリカの共有地をたくさん調べ、共有地から利益を受けている利用者は、受益が長く続くような自主ルールをつくっており、共有地が存続し続けてることを発見しました。


これまでの経済学の考え方は「共有地の悲劇、コモンズの悲劇」で、共有地は生き残れないというものでした。


例えば、放牧の場合、1頭でも多く放牧すると儲かるのでそうします。そうなると共有地を利用してる人が皆同じことをするので草がなくなり放牧地に適さなくなります。そんなわけで共有地でなくなり、結局共有地を個人へ分けて個人所有にしますが、こうなると無理な頭数を増やすことをしなくなり、そうすると自滅するので、放牧地として成り立ちます。この個人へ分けることを近代化といっていたのです。


これが市場経済の考え方です。ところが実際は共有地解体の原因が資源の過剰利用によって自壊したのでなく、人々が共有地を離れたのであって、農村から都市に人口が移った、都市で工場労働者になった、それで共有地の利用者が少なくなり個人の所有になったのです。


しかし存在を続けたところもありました。そこは資源の利用に厳しいルールを設けることで、共有地は維持され「共有地の悲劇」は予想されほど起こらなかったのです。


数年前までの市場経済万能の時代には、非市場的なものを排除し市場的なものに授与してきましたが、それが様変わりになり、オストロム教授のような研究が授賞したのは時代が180度変ったからです。


自民党から民主党に変ったのも同じ思潮に乗った話です。したがって、ノーベル経済学賞についてジャーナリストや経済学者の論評がもっとあってもいいと思ってましたが、ほとんど見かけないのは変なことだと思っていたところ、浜矩子同志社大教授が、毎日新聞(10月25日)のコラム「時代の風」で珍しいことに取り上げてました。こんな論旨です。


「両氏のテーマは極めて今日的、いずれも非市場的なるものの効用を説いている」
「近江商人の三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)のイメージが頭に浮かんだ」
「利用者による共有地の共同管理の論理は、まさに三方良しの論理だと思う」
「ウィリアムソン氏が唱える組織の効用も、三方良しに通じる。市場の中で解決しようとすると、自分さえ良ければの方向へ走る、その結果誰にとっても最適でない解答に達してしまう、そこで売り手も買い手も同じ組織に取り込んでしまった方が正解、全体感共有しながら、三方丸く収まる解答を探り当てる」
「談合の薦めのように聞こえるが、市場的なるものへのアレルギーが、非市場的なるものへの全肯定につながってはまずい」
「何事にもバランスが必要だ。市場と非市場との間の微妙なバランスをどう見出すか」


これがノーベル経済学賞の今日的評価です。市場経済へ偏りするたことに対する贖罪意識から行われたことでしょう。


地球環境問題解決も非市場的なアプローチに価値を認めたから議論が進んでるんだと思います。


「市場でもない、政府でもない、その間に解答を探ろう」です。社会起業もこれです。そういう点で社会起業は今日的なものです